・2022年8月4日 葉月に寄せて

あの、聞き慣れているエレベーターの
ドアの開く音がした。

急いで立って歩いていくと父と母の姿が
ガラスのドア越しに見えた。

10年続いた店を閉めようと一大決心を
したのは、2008年の10月。
目白台の最後の個展は大山茂樹さん・
智子さんご夫妻のうつわ展だった。

当時、父86歳、母80歳。

最後の個展は大山さんだと母に伝えると、
見に行きたいという。

母は、大山さんの器を好んで使っていた。

茶道をずっとやっていたから、家には
水屋箪笥をはじめ、茶道具は一通り
揃っていたし、私が子供の頃から
デパートに一緒に行けば、食器売場に
寄らないことはなかった。

食事の時には織部や信楽などの土ものに
季節の和え物や魚の煮つけ、炊きこみ
ごはんなど、手料理を盛り付け、
ノリタケやジノリの洋食器では、
お茶を愉しんでいた。

母の好みは、派手な柄ものより、土味が
感じられるシンプルで粋な土ものだったから、
器全体に、うねるように動植物が大胆な
筆致で踊っている大山さんの器を気に
入ってくれた時はとても嬉しかった。

特に青磁が好きな母も好む色絵の磁器は、
そうそう探しても見つかるものではない。

ああ、間違いなかったのだ。

今、思えば母の感性が私の基準になって
いたのだと思う。

12月も半ばを過ぎたよく晴れた日だった。

その頃、歩くことが困難になりかけていた
母を千葉の実家からタクシーで連れて来た
父が店に来たのは、開店の時以来だから、
2度目だった。

店の中央に置いてあるテーブルに手を
ついて思い思いに腰かけた両親に私が
お茶を淹れているとおもむろに
父がゆっくりと席を立った。

そう、父の動きはいつだってどこでだって、
おもむろなのだ。

そして、いつものように、一言も言葉を
発しないままいつもの・・少し前かがみの
姿勢のまま、音もさせずにそろりそろりと
店の奥の棚に近づいていく。

そこには、智子さんのマグカップを一列
に並べていた。

少しずつ上ってきた昼間の太陽の眩しい
光がいよいよ窓からいっぱいに差し込んで、
カップもろとも小さな父の身体を包み
込んでいた。

父は、迷うことなく一つのカップを手に
取ったかと思うと、またゆっくりとした
足取りで戻ってきてテーブルに置いた。

そのカップには、胴全体に淡い緑と
オレンジのグラデーションで一本の蔓草が
伸び、ところどころに朱色や黄色の小さな
実が描かれていた。

繊細な植物のラインと差し色となって
いる実のこっくりとした色が真っ白な
器の肌に映え、佇まいがとても優しい
カップ。

もし、どなたの手にも渡らなかったら
私が・・・・と密かに自分も思いを
寄せていたカップだった。

あっけにとられていた私に向かって、
父が一言、言った。

「きれいじゃろ。」

父は自分でお茶すら淹れたことはなかった。

食器ばかりか暮らしを取り巻く様々なこと、
いや、暮らしそのものに対して関心を少しでも
持った父を見たことは、それまで一度も
無かった。

一緒にショッピングに出かけたこともないし、
旅をした記憶も数えるほどしかない。

でも、この時私は・・・
はっきり分かったのだった。

父は、「きれいなもの」が好きだったのだ。

晩年になって、配達してもらっていた
宅配弁当もそのままでは手をつけなかったのに
智子さんの色絵皿に盛り付けてみると
「うまいのぉ。」と言って食べていた。

器の力は大きい。

「なら、私も」とばかり母がその時選んだのは、
「うさぎ」柄のカップ。

うさぎ年の母は、大山さんのうさぎ柄の器に
目がなかったから。

そのカップにも大きくてまん丸い背中を
見せているうさぎと野山を天翔けるうさぎが、
青海波模様の小川の流れに身を任せて
カップの中に漂っている。

父のカップと並べてみるとうさぎのカップの
方が一回り大きく、男性にしては小柄な父と
女性にしては、背丈のある母をそのまま
体現しているかのような様子に思わず、私は
笑ってしまった。

それ以来、朝食の時には必ず父と母は
このカップを使っていた。

父は牛乳を飲むときに。
母は紅茶を淹れて。

たまに私が実家に泊まった翌朝、
老&老コンピがお花と兎のカップを使って
朝食を食べている光景はなかなか
微笑ましかったものだ。

二人だけでずるいな。

私もお願いして蛙の絵で
お揃いのカップを作ってもらった。

蓮の葉が点々と散る中に一匹のカエルが
思いきり手足を伸ばしてダイブしている図。

こうして実家のキッチンの決まった場所に
この3つのカップは仲良く並ぶこととなった。

あれからもう思い出せないくらい
時間が経ってしまった。

今では父のあのカップは私が毎朝
白湯を飲むのに使っている。

ろくろではなく、手で成型したカップは、
作り手の手の感触をそのまま土に封じ込め、
使い手の心に優しく寄り添ってくる。

私は、思わず、両方の手でカップを包み込む。

かつて、朝食のテーブルで、震える手で
牛乳を飲んでいた父が、やっていたように。

私の掌は父の手と重なる。

時間は容赦なく過ぎ去っていくけれど
その痕跡を器は伝えてくれるのだ。

家族の歴史と記憶を宿して。

大切に使っているものは、その人の魂が
入っていくのかもしれない。

今日もお揃いのカップは、3つ、わが家の
食器棚の中に並んでいる。

・2021年9月30日 一服のお茶

 

先日久しぶりに日本橋へ出掛け、
前から気になっていた骨董品店の
暖簾を思い切ってくぐってみた。

うす暗い店内には、器から家具まで
店主の好みが感じられるものが
余裕を持って美しく並んでいた。

ゆっくりと見回している中で
ふと気になったのが、
「見立ての茶箱」。

何年もかけて、あちらこちらを
探し歩き、巡り巡って店主の
手の中に落ちてきたものたち。

その中から選び抜かれたものが
一式の茶箱にしつらえられて
展示されている。

見立てなので、茶箱用に作られた
茶道具ばかりではなく、仏具が
あるかと思えばガラス製のもの
があったり。

一つの箱の中には、この見立てに
たどり着くまでの長い長い時間と、
店主が慈しんできた小さなおままごと
のような世界が詰まっていて、私は
すっかり見惚れてしまった。

私のそんな様子に気が付いたのか
なんとなしに会話が始まり、
「茶」つながりでお抹茶の話になった。

聴けば、店主は毎朝ペットボトルに
お抹茶をシェイクしたものを一日中
持ち歩いて飲んでいるのだとか。

「おかげで、風邪知らず、
 疲れ知らずですよ。」

 

母と暮らしていた頃、三時のおやつ
は欠かせない大切な日課だった。

そんな時、時々お抹茶を点てた。

「また、お抹茶が飲めるなんてねえ。」

カーテン越しに、午後のそろそろと
傾きかけてきた西日が差し込んで
いる部屋の中で、母は一口、一口、
目をつぶってゆっくりゆっくり、味わって
いる。

お抹茶の鮮やかな新緑の色が
オレンジの日差しのまんまん中で
たゆたっている。

あと何回、点ててあげられるかな。

そんな母の姿を見ながら
声にならない声を胸の中で
つぶやいていたっけ。

背筋をピンと伸ばして
戴くお茶室の一服も貴いけれど
身の回りに有る物で
不作法に点てる一服のお茶を
飲んでくれる人がいることの幸せを思う。

その人の五臓六腑に染み渡り、
この瞬間の口福を感じてくれたなら。

悔いのほんの一隅でも埋めることが
できるだろうか。

いつの日か、私の欲望も枯れた頃、
器遍歴の終着点は一つの茶箱に
なるような予感もしている。

さあ、これから一服のお茶でも。

 

 

2021年6月4日 パリと私を繋ぐもの

 

 

パリと私を繋ぐもの

使い古されたミシュランの地図。

ポケットからこぼれ落ちたメトロの切符。

凍えた手で扉を開けた教会で、揺らいでいた
ろうそくの炎。

薄暗がりの中でその確かな存在を見せつけていた
彫像たち。

そして、ここに一つのリングがある。

このリングの中心を成している部分が
聖人の胸像を描いた七宝だ。

実は元々はピンだったものだが
かなり厚手のコートでも、ピンの挿し跡が
無残にも残りそうなほど無骨だったものだから
時々、取り出しては眺めるだけで、
長いこと、じっと箪笥に仕舞い込まれたままだった。

或る時、ふと思い立って、アクセサリー作家の
白洲千代子さんにリングに作り替えてもらった。

この美しい聖人の横顔を眺める度に
恋人を追ってパリに住みついた友人を
夫と二人で訪ねた時のことを思い出す。

彼女の手作りの料理をひとしきり堪能した後

「結婚おめでとう」

と言って渡してくれたのがそのピンだった。

クリニャンクールの蚤の市で探し回って
やっと見つけたのだと満面の笑みで
話してくれた。

私は顔全体をくしゃくしゃにしたようにして
笑う彼女の笑顔が大好きだった。

不思議なことに、その後、彼女に会うことは
無くなり、今では消息すらも掴めなく
なってしまった。

けれども、その晩の食事が旅の中で一番
美味しかったことや、彼とトルコやモロッコを
旅してきたのだという話や、家庭教師をして
生計をたてるのは大変だという話が、今でも
走馬灯のように蘇る。

コンパクトながら使いやすそうなキッチンも
見せてもらったり。

パリの中では新興住宅地の中にあった二人の
アパートは慣れない異国の地で緊張の連続だった
私たちにとっては、やっとたどり着いた、どこか
懐かしい、心に灯がともるような場所だった。

それからどれくらい月日が経ったのだろう。

このリングが出来上がった時、白洲さんから
メールが届いた。

「できたよー。」

それは珍しく夜中だった。

そんな遅い時間にメールをやり取りをすることは
無かったから、白洲さんの気持ちが伝わってくる
ようで嬉しかった。

自ら焼いた陶片と白洲さんが集めてきた素材の中から
選ばれたとんぼ玉が、聖人に降り積もった時間を
「今」に繋げる。

と、同時にこのリングは、今の私とあの時のパリを、
そして友人と私を繋いでくれるものになった。

以来、表舞台に立つようになった聖人を眺める度、
きっとまたどこかで彼女とは会えるような気が
している。


次に会うのは地球上のどこだろう。

東京、パリ、或いは・・・。

時の流れは
ゆるやかに
必然。

 

 

2021年4月28日 巌さんのこと

 

ある日のこと、一枚の花びらが、風に乗り、ここ、
半地下のギャラリーのパティオにまでひらひらと
舞い降りてきた。

近くの染井霊園から流れてきたのか、
黄色い山吹の花びらと交差するように、一つの
白いものが目についた。

蝶々だ。

しばらくの間ゆらゆらと浮遊していたかと思うと
8の字を描くようにして、いつの間にか視界から
消えていった。

けれどもその白い残像は、しばらく
私の目に焼き付いていて、強烈な気配を
残していた。

そして、私の記憶はあの日にまで
さかのぼる。

蝉の無く声がかしましい8月のある日。

私は信楽の山里にある工房を訪ねていた。

器のギャラリーを開こうと決心をし、まず
初めに思い浮かんだ陶芸の地が信楽。

といっても作家で知り合いがいるわけでも
どこかの工房にあてがあるわけでもなかったから
とにかく信楽焼きを扱う店に片端から入っていった。

とある店の、棚に並んでいる器の前に来た時に
私は思わず立ちすくんだ。

「巌さんだ。」

それから、案内所で貰っていた工房マップを
頼りに車を走らせた。

巌陶房の工房を訪ねるなんて
あまりにも恐れ多すぎて、それまで
私の脳裏には1ミリも思い浮かんでいなかった。

それが器を目の前にした途端、私の身体は
何かに弾かれたように、動き出したのだ。

懐かしい日本の原風景が残っているような
山里にその工房はあった。

ちょうどその時、庭仕事をしていたのが
奥さんのフミ子さんで
突然工房を訪ねたこちらの非礼を
全くものともせずに、笑顔であたたかく
迎えいれて下さった。

その気さくなお人柄に、最初は緊張していた
私も、やがて、巌さんの器に心打たれた日から、
どれだけ愛し使ってきたかをフミ子さんに熱っぽく
語っていた。

その頃から体調を崩されていた巌さんは、
今、思えば隣の部屋で臥せっていたのだった。

襖越しに聴こえてくる私たちの会話に
無言で耳を傾けていたに違いない。

ひとしきりお話をした後で、少しの間
その場を離れていたフミ子さんが
一抱えの器を持って戻ってきた。

それは、たっぷりとした汲み出し4客だった。

「これを持って帰ってもらってと言っています。」

巌さんとの初めての邂逅、そしてそれが最後となった。

以来、我が家ではお茶を飲むとなれば
この汲み出しを取り出す。

そしていつもそうするように、両手の掌で
器を包み込む。

そうすると、お茶の温もりが掌を通して
うっすらとこちらに伝わってきて、
心がほっと和むことを知っているから。

そして、あの昼下がりの、薄暗い
座敷で過ごした時間を思い出すのだ。

いよいよお暇しようと腰を上げた時、
思い切ってギャラリーを始めたいということを
伝えた。

すると、フミ子さんから意外な言葉が
返ってきたのだ。

「いつでも連絡ください。」

これから初めて店を開こうというど素人の私に
何の屈託もなく、そう言葉をかけて下さったのだ。

右も左も分からない私は、それにどれだけ勇気づけられたことか。

フミ子さんの言葉には、巌さんの気持ちがそのまま
重なっているような気がして、
私の背中を大きく押してくれた。

それからほどなくして、巌さんはこの世の人ではなくなった。

それから何年か経って、個展の打ち合わせに工房を
訪ねた時だった。

いつものように、仕事の話はそっちのけで、皆で漫才
よろしくしゃべり昂じているとき、どこからともなく
白い蝶々が迷い込んできて、ひらひらと皆の頭の上を
舞っている。

「あっ。。。」

皆が話を止めて蝶々を目で追っている。

と、そのうちゆらゆらと下降してきたかと思うと
私が掃いていたスニーカーの先にふわりと
舞い降りた。

「巌さんや。。」

フミ子さんがつぶやいた。

工房が一瞬静まり返っている。

何度か、羽を閉じたり開いたりしていた蝶々は、
やがて、工房の入り口に重なっている
素焼きの器たちの間を縫って外に飛んで出て行った。

私は、工房を訪ねる度、いつも巌さんはどこかに
いるような気がしてならなかった。

なぜって巌さんは初めから「気配の人」だったから。

私にとっては永遠に襖一枚を隔てた向こうに生きている人なのだ。

だからいなくなったりしない。

この日の蝶々は、巌さんのメッセージ。

私もそう思いたかった。

「いつまでも仕事せんと、しょうもないな。」

蝶々がいなくなると、たちまちいつものあの
賑やかな関西弁がはじまった。

そう、これが巌陶房。

天空も下界も一緒になって
やんややんやと、今日もたくさんたくさん
作り続けている。

 

 

2021年2月16日 タジン鍋

2月も半ばに差し掛かり、寒さも
だいぶゆるむ日が増えてきましたが
まだまだお鍋が恋しい季節。

家族や友人とお鍋を囲べばお腹も心も
温まり、ほっと心安らぐニッポンの
食の風景の1つです。

ところが、わが家の「お鍋」の意味する
ところは、実は、日本風のお鍋では
ありません。

その名も「タジン鍋」。

そろそろ晩御飯を決めないとという
夕暮れ時、どちらからともなく

「今日は何にする?」

と問えば

「タジン鍋」

と返すのが日常の風景。

きっかけは瀬戸市在住の陶芸家・宮地生成
さんの土鍋展でした。

展示期間中は、宮地さんがギャラリーで
タジン鍋を使ってパエリアを作り、来て
下さったお客さんをもてなすという今
振り返ってもとっても魅惑的な企画
だったのですが、気が付けばすっかり
自分が一番のヘビーユーザーになって
いたのでした。

タジン鍋って何?という方のために
少々ご説明しますと、その風貌は一度見たら
忘れられない、とんがった三角帽の
ような形状の蓋が付いた浅いお鍋のことで
北アフリカで伝統的に使われてきたお鍋です。

「タジン」は鍋料理のことで、現地では、
お肉や野菜を香辛料と一緒に煮込んで
食べます。

日本でも一時、ブームになりました。
陶器からシリコン製まで多種多様のタジン鍋
が出回り、書店の料理本売り場では、
レシピ本が平積みになっていた時代も!

宮地さんのお茶目な作風とあいまって
ギャラリーでも炊飯用の土鍋と並んで
人気者だったタジン鍋。

あれからずいぶんと時が経ち、書店から
「タジン鍋」の文字が消えた今もわが家では
タジンブームは永遠不滅。

週に何回か食卓に登場しております。

わが家のタジン鍋の作り方はしごく簡単で
拍子抜けすること請け合いですが、
一応、ご紹介しておくと

タジン鍋にオリーブオイルまたは米油など
を引きます。
好みの野菜を適当な大きさにカットして
適当に並べます。
冷蔵庫に入っている野菜ならなんでも。

定番の玉ねぎ、ジャガイモ、人参、かぼちゃ、
きのこ類にブロッコリー。
欠かせないのは、トマト。
基本的には無水調理のため、
トマトを入れておくと水分が出て良いお出し
になってくれます。
今の季節なら、里芋やれんこんはホクホク。
かぶに至ってはもうトロトロになってその
滋味溢れる美味しさは毎回感動ものです。

野菜を並べ終わったら、塩を少々全体に振り、
最後にキャベツで全体を覆って蓋をします。
野菜が山になっているのでぎゅうぎゅうと
無理やり押し込む感じ。
そして火にかけます。
鍋のフチから蒸気が上がってきたら2,3分
そのままにして、その後弱火にします。
勢いよく湯気が鍋と蓋の隙間から出てくる
状態で15分から20分くらい。

タジン鍋の蓋には空気穴が開いていないため
蒸すのにとても適しています。

竹串で火の通りを時々確認し、野菜が
柔らかくなったら完成。

鍋はそのまま食卓へ。

好みで塩や塩麹、柚子胡椒などでいただきます。

たまに鶏肉を入れたりしますが、基本は
野菜のみ。

気分を変えて、油をごま油にし、
ショウガや桜エビをたっぷり散らしても
なかなかなもので、後半でお餅を投入することも。

これって本場のタジンからすれば、亜流も亜流、
単なる蒸し野菜料理ですが、これが何度食べても
美味しい。

基本の味付けがお塩だけというのがポイント
のような気がします。それぞれの野菜の
持ち味、旨味を存分に味わえ、全く飽きる
ことがありません。

お酒は何を合わせても良いですし
パンでもごはんでも合います。

野菜から出たスープにごはんを浸しながら野菜と
混ぜ合わせて食べるのも即席リゾットのようで
お楽しみの一つ。

とにかく作るのが簡単。
野菜類をセットしてしまえば、火にかけて放って
おくだけです。
その間に、他のおかずを準備することも出来ます。
ただ大量の野菜でお腹がいっぱいになるので
サイドメニューは、大抵、お豆腐か、生野菜
サラダくらいで充分。

東京と奈良、東京と実家の二重生活が続いていた
頃、ひとり暮らしとなっていた家人を支えていた
のもタジン鍋。
仕事で遅くなっても、簡単に作れますし栄養も
たくさん摂れるのです。

この時期と合わせれば・・・おそらく
1000食は食べただろうとは家人の弁。

また、私、個人的には、タジン鍋で身体を
整えるということもあります。
旅行から帰って来た時とか、外食が続いた時、
不規則な生活が続いた時など、普段の食生活の
リズムが崩れた時もタジン鍋で野菜を十分に
摂って身体をリセットする、そんな感覚です。

わが家の生活に無くてはならないもの。

お鍋は大、小2つあるので時に応じて。

宮地さんの土鍋展の時以来ずっと使いこんで
良い感じになってきました。

今の夢は、モロッコに旅をして、本場の
タジン鍋を味わうこと。

わが家のタジンに一大革命が起きるか否か、
今から楽しみで仕方ありません。

モロッコ正統派タジンとの出会いに思いを
馳せながら、今晩もわが家流のタジンで
美味しい時間。

 

 

2021年2月3日 立春大吉

今日は立春。
東京は、冬の青空が広がった気持ちの良い一日でした。

立春が2月3日になるのは、1897(明治30)年以来
124年ぶりということで、この貴重な日に何か残さねばと
いうわけで久々の 回覧版をお送り致します。

節分、立春で思い出すのは、奈良・元興寺の節分火渡りと
春日大社の万燈籠です。
春日大社ではきっと「立春大吉」の御札をつけたユキヤナギ
の枝が授与されていることでしょう。

2009年、それまで10年続けた目白台の店舗を店仕舞いし
怒涛の日々を経て奈良駅に降り立ったのが節分の日でした。
夕暮れの中、部屋中に屹立している引っ越しのダンボールの
山を振り切って目指した先は春日大社。
林の中を続く道は、一体どこに繋がっているかさえまるで
判別つかないほどの闇と静寂に包まれていたことを
今でもはっきりと覚えています。

そして、たどり着いたご本殿に並ぶ3千基の燈籠は夢か幻か・・。

それから早12年。

奈良生活の4年間のブランクがあったもののギャラリーKAIを
始めてから23年目です。
昨年1年はコロナ禍でまったくの手探り状態を余儀なくされましたが、
まだ終息は見えず、これから落ち着きを取り戻したとしても
コロナ前の状態に戻ることはないのだろうと思っています。

模索、試行錯誤が続くのかなと思います。

さて、自宅で過ごす時間が長くなったこともあって身の回りを
改めて見渡してみると、食卓に並ぶ器をはじめ、ギャラリーで
重ねてきた時間が衣食住の隅々まで沁みわたり、この
不自由な生活を強いられる中でも心の糧となっていることを思います。

そして一つ一つにストーリーがあり、長い長い時間を一緒に歩んできた
ことも。
かつては、当たり前と思っていたことがなんと貴重なことだったのかと
いうことを思い知らされている日々です。

これからは、ギャラリーの企画のご案内だけではなく、
そんな愛おしいものたちとの暮らしにまつわることなども
取り入れながら回覧版としてお届けしてゆきたいと思います。

どうぞお時間のある時にお気が向いたら少しだけお付き合い
いただければ幸いです。

立春といってもまだまだ寒さ冷え込みは続きます。
どうぞ皆さまご自愛ください。